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ゆとりーなの日記

日記的な事を書いて行くと思はれる

日本の漢字はヲハコンにされてしまつた

 明日は卒業式らしいので、ここらで漢字に對する愚痴を垂れ流すとしませう(謎の順接)。
 私が日本の漢字に疑問を持つたのは恐らく中學の頃の國語の授業で「辻斬り」と云ふ單語が出て來たのが最初の樣に思はれます。この邊の記憶は大分昔のことなのでやや曖昧なのですが、當時の教師が最初は「辻」の字を一點しんねうで書いていたのを後に「この字は點が二つ(所謂二點しんねう)が正しい樣だ」と訂正したのが妙に印象に殘つたのです。このもやもやは當時解消した記憶がないので、恐らく斯う云ふ物だと流して了つたのでせう。斯して同じ「しんねう」の部首を持つ漢字でも點が一つのものと二つの物が何故か存在する自體を受け入れされられる事になつた訣です。
 後に舊漢字を知る事になり、どうも昔は二點しんねうで統一されて居たが、當用漢字の時代になつて、一部の文字だけ一點しんねうになつたらしいと云ふことを知り、當用漢字なる物が中々惡さしてゐたらしいと斯うなる訣です。所で小學校の頃の漢字ドリルでは(餘談ですが私は所謂ゆとり世代だつたりします。)しんねうの字體のお手本は二點しんねうの中、上の點だけが獨立して居て、下の點はしんねうの本體と云へる樣な部分と繋つた樣な字體となつて居たと記憶してをります。これは現在書籍等で良く見る字體とは異つてをります。詰りゆとり世代の頃に於る漢字教育では、二點しんねうの形を意識した字體が教へられて居たとも言へなくもないでせう。この字體を習つて來た身としては、「辻」の字は點が二つであると教はるとどうなるかを考へると、元々二點しんねうの中、下の點と本體がくつ附いた樣な字體にもう一つ點を付加へる事になる訣ですから或る意味三點しんねうみたいな字體が出來上つて了ふ事になります。恐らく點の數が重要さうな氛圍氣でしたので、恐らくこの三點しんねうみたいな字形を書いても恐らく正解となるのではないかと思はれます。
 さて、二點しんねうと一點しんねうが竝存する謎な事態を作り出した諸惡の根元である當用漢字なるものは如何なる目的を持つて居たかを考へる必要があります。字體を簡易化する目的だけであれば、同じ部首を持つ漢字に對して一樣にルールを作れば良い樣に思へます。詰りは「しんねうは一點で書く事を正しいとする」等です。しかし實際には斯うはならず、基本的には「よく使はれる字のみ一點にし、それ以外の漢字は使ふべからず」とされて了ふことになります。その結果、「道」や「通」等、よく使はれる漢字は一點しんねうとなりました。そして、選ばれなかつた「辻」や「逗」の樣な字は二點の儘放置される事になります。
 所で二點しんねうを一點しんねうにする簡略化が必要だつたかどうかも實は疑問な話です。點を一つ省略した位でどの程度の手間が省けたと云ふのでせうか。手書きでは適當に續け字にしてしまふ事もザラでせうし、それを活字にする手間だつて、點の一つや二つ大した手間ではない樣に思へます。少なくとも手書き者自身が氣にする樣なことではありません。正式に活字になる時に然るべき字體になるのを待てば良いだけです。
 又、手書き字體と活字體を似たやうな字體にすると云ふ意圖もあるみたいですが、これも妙な話で、手書き體と活字體を一緒にしようとすると云ふ事は必然的に手書きの手間を避けるべく、字體を簡略化せざるを得ませんから、活字体を併せて簡略化されることになります。例へば「専」と「転」、これらは元は「專」、「轉」と書き、言はば仲間だつた訣ですが、バラバラな略され方をされてすつかり關聯性が分り辛くなりました。「仮」なんかも、字形的には「板」、「坂」に近いですが音は全然似て居ません。こちらも元は「假」と書いた訣で、こうなれば「霞」等と同じ仲間感がふつふつと漂つて來るでせう。他には「広」なんかも擧げられます。この字は元々「廣」の俗字で、手で書くのは面倒だからと云ふので「廣」の略字としての記號的な意味で「広」と云ふ字が使はれて居た樣で、如何にも記號の樣な體をしてをります。さて、斯樣な事が認められると云ふ事は、例へば某大學名に出てくる「慶應」の文字なども、厂にそれぞれk、oを入れる遊びの樣な記號的字體がないこともないわけでして、これからはこれらの字體を正字にしますよも認められると云ふ樣なものなのです。件の學内には現代正字とされて居る字形を使つて「慶応」と書く事すら嫌ふ方も居られる樣なので、この樣な字形が採用されて了つたらそれこそ發狂物でせう。
 手書きと活字を合せると云ふ試みは斯樣な問題を含む訣です。手書きの手間を避けるべく、簡略化に進めば、それこそ只の記號の樣な正字が量産されて了つたり、省略の仕方に一貫性を持たせることに失敗したりで、漢字の仲間意識や表意文字としての意味を破壞する事にもなりかねない訣です。斯樣なリスクを犯す位であれば、今の正字として採用されて了つた省略形は今迄の通り俗字としておき、正式に活字にする時に本来の字形にする樣にした方が良い樣に思はれます。
 ここでもう一度しんねうの話に戻ります。時代は進み、コンピュータが汎く普及する樣になりました。私もこの文章はPCを用ゐて書いて居る訣です。ここで「道」や「通」と云ふ字を打つことを考へます。どう探しても一點しんねうの字體しか見つけられません。逆に「辻」や「逗」の字で一點しんねうの字體が見つけられるかと言はれれば、これも矢張り見つけることは出來ません。當用漢字の時代は終り、常用漢字の時代になり、漢字制限の度合は緩められる事になつた訣ですが、嘗ての当用漢字の遺恨が此處にも出てきて了つて居るのです。
 當用漢字は言はば漢字廢止に移行する爲に作られた樣な物でした。詰り何れ廢止するのだから整合性等と云ふものは恐らく深くは考へられてゐないでせう。それは「しんねうは一點で書く事を正しいとする」の樣にせず、「よく使はれる字のみ一點にし、それ以外の漢字は使ふべからず」とした事にも表れて居る樣に思はれます。後に「辻」や「逗」等が市民權を回復し、しんねうの整合性が取れなくてもそんな事は當用漢字からしてみたらどうでも良いのです。寧ろ廢止を目論む身としては市民權を回復する樣な事等あつてはならなかつたと迄言へませう。
 この樣な流れから、しんねうは一點を持つ字と二轉を持つ字が竝存する事になつて了ひました。他の新字と舊字の樣に餘りにも字形が違ふ字に關しては、別の文字コードが割り當られて居るので今でもそれなりに使ふ事が出來ます。しかししんねうの樣に、大した差がない字形は別々に作られず、當用漢字の仲間入した字は一點、入れなかつた字は二點と云ふ樣に分られて居るのが現状です。詰り現在普通のPCではしんねうの點の數を統一して文章を書く事すら出來ないのです。
 現在漢字に興味を持ち、自分で使ふ字を考へれば考へる程、自由に漢字が使へない樣な世の中になつて了つてをります。當用漢字が殘した遺恨は本來であれば問題が起こる筈もなかつたコンピューターの世界に於ても文字コードの問題として深く根差す事になつたと言へませう。これは誠にあつぱれと言ふ他なく、漢字に關心を持てば持つほど漢字の現状に失望して了ふ現状が作り出されて居るのです。これだけでも當用漢字の當初の目的は十分達成出來たと言へませう。漢字は本邦日本の施策により殺されて了つたのです。